幸福のだるま像、紅@高崎駅

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DoraNeko

高崎駅のコンコース、西口ペデストリアンデッキに出る手前に紅白が対になっているだるま像、東京駅の「銀の鈴」などを手掛けた宮田亮平さんの作品だそうです。外に向かって右側、紅白の紅の方でございます。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    だるま(達磨)は、インドから中国へ仏教を伝えた僧侶・達磨。転じて、達磨の坐禅姿を模した日本の置物。現在では縁起物として広く親しまれている。多くは赤色の張子(はりこ)で製作される。達磨が壁に向かって座禅を続けて(面壁九年)手足が腐ってしまったという伝説にちなみ、手足がなく、顔が大きい。白目のまま販売され、祈願のため左目に黒目を書き入れ、成就すると右にも黒目を入れる「目入れだるま」の風習が、江戸で文化年間に始まって以降続いている。鎌倉時代に日本に伝わった仏教禅宗では達磨大師という僧侶を重要視し、「祖師」の言葉は達磨を表すこともあるほどである。禅宗寺院では達磨大師を描いた掛け軸や札をいわゆる仏像のような役割で用いることが行われるが、達磨大師には壁に向かって九年の座禅を行ったことによって手足が腐ってしまったという伝説がある。ここから、手足のない形状で置物が作られるようになった。だるまの源流は、丸みをつけた底近くに土製の重りを入れて重心を低くすることで、倒そうとしても起き上がる人形「不倒翁」にある。これが室町時代の日本に伝わり「起き上がりこぼし(起き上がり小法師)」が関西をはじめとしてつくられるようになった。今日のような「だるま」が生まれたのは江戸時代で、面壁九年と伝えられる達磨の座禅姿を、倒れても起き上がってくる起き上がり小法師に写し、不撓不屈の思いを込めたと推測されている。群馬県高崎市で生産されているだるま「上州だるま」とも呼ばれているが、公式名称ではない(高崎だるまが地域団体商標に登録されている)。全国生産の80%に匹敵する年間170万個が生産されている。現代の選挙の際に立候補時に左目玉を墨で入れ、当選後に右目玉を墨で入れる「選挙だるま」のほとんどが高崎で生産されている。冬に乾燥する気候がだるま作りに適しており、農閑期の副業として盛んに行われた。始まりは、延宝5年(1667年)に東皐心越禅師が開山した禅宗の一派である黄檗宗の少林山達磨寺で、毎年正月に心越禅師の描いた一筆達磨の座禅像を配り札としていたことによる。その後、文化年間に達磨寺の近隣の上豊岡の山県朋五郎が達磨寺九代目住職の東獄和尚に木型を彫ってもらい、和紙を張って作ったのが、高崎だるまの始まりとされている。球に近い形状の赤色の胴体にくぼんだ白い顔がついており、そこに豪快な髭と眉毛が描かれている。この髭と眉毛は鶴と亀をあらわすという。衣服には金色の縦縞が描かれ、正面中央や顔の左右には文字が記入される。特注でここに祈願内容など独自の文字を入れることもでき、祈願のシンボルや祝儀の贈物として広く利用されている。

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