蹴上発電所と蹴上浄水場。

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words=’明治末年から大正初年に掛けて京都市で行われた都市基盤整備事業、第二疏水開削・上水道整備・道路拡築と電気鉄道敷設、これらを合わせて京都市三大事業と呼びますが、これで建設されたうちの蹴上発電所と蹴上浄水場でございます。小学生の頃の社会科見学で内部を見ておりますが、今もそうなんですかね?的なことをしばし考えておりましたですわ。今では財政破綻の危機にある京都市ですが、先人は偉大だったんですけどね~。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    当初は蹴上南禅寺から鹿ヶ谷付近、現在の岡崎公園周辺に水車の動力を利用した工場を誘致、現在でいう工業団地を作る計画であった。『諮問案・起工趣意書』には「其一製造機械之事」として水車動力の採用が触れられている。しかし、田辺らのアメリカ視察で、水車の設置は京都の条件に合わないことが明らかになったため、蹴上に実用化されて間もない水力発電所を設置し市内に電力を供給するよう変更になった。蹴上発電所は第1疏水開通にやや遅れて、明治24年に送電を開始した。この電力で蹴上インクラインの運転もすることになった。日本初の電気鉄道である京電の開業も需要家確保の側面もあった。毎月1日と15日は水路の藻刈りのため発電所が休止、電車も運休となっていた。のち鴨東運河の夷川船溜に夷川発電所、また鴨川運河の深草墨染町に伏見発電所も建設され、市営の電力事業として運転されていた。1935年(昭和10年)6月と8月の鴨川水害の復旧工事に併せて疏水の暗渠化に伴い塩小路発電所が計画されたものの、戦時体制で疏水の暗渠化と共に中止された。そして1942年(昭和17年)の配電統制令により関西配電に発電所を現物出資して市営事業としての幕を閉じた。2017年現在は3発電所とも関西電力所有の無人発電所となって発電を続けている。

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