小松島ステーションパーク狸広場にある、金長たぬき像。

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words=’小松島ステーションパーク狸広場にある、金長たぬき像でございます。像の周りは池と滝になっており、像の支線の正面はステージになっておりますですな。盆踊りとかをやるんですかね、知らんけど(←知らんのかいw)。前にここに来た時には国鉄小松島線の駅跡にあるC12形蒸気機関車と50系客車のみ撮影して離れてしまったので、この像が心残りで再訪したのでございます。今回は逆光マルダシで上手く撮影できない状態でしたですわ。相性が悪いんでしょうかね、阿波だけにアワワですな(←やめとけっつってんだろよ無理なダジャレ入れるのw)。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    阿波狸合戦(あわたぬきがっせん)は、江戸時代末期に阿波国(後の徳島県)で起きたというタヌキたちの大戦争の伝説。阿波の狸合戦(あわのたぬきがっせん)、金長狸合戦(きんちょうたぬきがっせん)ともいう。四国に数あるタヌキの話の中でも特によく知られており、徳島のタヌキの話の中でも最も名高いものともいわれる。物語の成立時期は江戸末期と見られており、文献としての記録は1910年(明治43年)に刊行された『四国奇談実説古狸合戦』が初出とされる。明治時代から戦中にかけては講談で、昭和初期には映画化されて人気を博しており、平成期以降には徳島県のまちづくりの題材となって、徳島県民に親しまれている。伝説を要約すると、以下のようになる。天保年間(1830年から1844年まで)、小松島の日開野(後の小松島市神田瀬町)での話。大和屋(やまとや)という染物屋を営む茂右衛門(もえもん)という者が、人々に虐められそうなタヌキを助けた。間もなく、大和屋の商売がどんどん繁盛し出した。やがて、店に務める万吉という者にタヌキが憑き、素性を語り始めた。それによればタヌキは「金長(きんちょう)」といい、206歳になる付近の頭株だという。万吉に憑いた金長は、店を訪れる人々の病気を治したり易を見たりと大活躍し、大評判となった。しばらく後、まだタヌキとしての位を持たない金長は、津田(後の名東郡斎津村津田浦、現・徳島市津田町)にいるタヌキの総大将「六右衛門(ろくえもん)」のもとに修行に出た。金長は修行で抜群の成績を収め、念願の正一位を得る寸前まで至った。六右衛門は金長を手放すことを惜しみ、娘の婿養子として手元に留めようとした。しかし金長は茂右衛門への義理に加え、残虐な性格の六右衛門を嫌ってこれを拒んだ。これを不服とした六右衛門は、金長がいずれ自分の敵になると考え、家来とともに金長に夜襲を加えた。金長は、ともに日開野から来ていたタヌキ「藤ノ木寺の鷹」とともに応戦した。しかし鷹は戦死し、どうにか金長のみが日開野へ逃れた。金長は鷹の仇討ちのため同志を募り、六右衛門たちとの戦いが繰り広げられた。この戦いは金長軍が勝り、六右衛門は金長に食い殺された。しかし金長も戦いで傷を負い、まもなく命を落とした。茂右衛門は正一位を得る前に命を落とした金長を憐み、自ら京都の吉田神祇管領所へ出向き、正一位を授かって来たという。この戦いの頃、六右衛門へ攻め込む金長軍が鎮守の森に勢揃いすると、人々の間で噂されていた。人々が日暮れに森へ見物に押しかけたところ、夜ふけになると何かがひしめき合う音が響き、翌朝には無数のタヌキの足跡が残されており、合戦の風説も決して虚言ではないと話し合った。天保年間には、大和屋に助けられたタヌキが恩返しをしたという動物報恩譚があったため、これを由来とする説がある。その後のある年、勝浦川の河川敷に多数のタヌキの死体があった事実が加わり、それらを講談のように仕立て、金長と六右衛門の二大勢力の激突の話が誕生したという説もある。

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