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DoraNeko

御靈神社の境内にある清明心の像でございます。植え込みが邪魔で撮影するのに支障になっておりまして、上手くは撮れませんでしたですな。
清明心は「きよきあかきこころ」と読みます。司馬温公の甕割りがモチーフになっているのだそうで、「物より勝るのは人の生命である」を表しております。国際児童年の際に設置された像だということですな。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は、京都市上京区上御霊竪町にある神社。旧社格は府社。上御霊神社という社名は下御霊神社に対応するもので、現在は宗教法人としての正式名を「御靈神社」としている。そもそもは桓武天皇の時代、各地で疫病が流行していた。これは御霊の祟りであるとして、延暦13年(794年)5月、早良親王(崇道天皇)の御霊をこの地に祀ったのが始めだとされる。また、この地には平安遷都以前から出雲氏の氏寺・上出雲寺があり、当社の元はその鎮守社であったともされる。貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原夫人(藤原吉子)・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿らの六所御霊であった。この御霊会が当社および下御霊神社の創祀であるとしている。後年には祭神のうち伊予親王と観察使(藤原仲成)が井上大皇后と他戸親王に変わり、火雷神と吉備大臣(吉備聖霊)が追加されている。平安時代には現在の下御霊神社を下出雲寺御霊堂、当社は上出雲寺御霊堂と称した。朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年(1384年)には正一位の神階を授けられている。室町時代の文正2年(1467年)1月18日には、失脚した管領の畠山政長が当社境内の森に布陣し、そこに畠山義就が攻め寄せて上御霊神社の戦いが行われた。この戦いは応仁の乱の前哨戦となったことから当地は「応仁の乱発祥の地」とされる。なお、延喜式神名帳に記載される出雲井於神社(式内大社)や出雲高野神社(式内小社)を当社に比定する説もあるが、継続性は不詳であり、神社側の由諸ではこれらの式内社について言及していない。明治時代になると府社に列せられている。

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