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広島県の可部線三段峡駅と島根県浜田市を結ぶ陰陽連絡鉄道線として計画された広浜鉄道今福線は、太平洋戦争を挟んで戦前と戦後の二度にわたって着工されて、ともに一部は完成しながらも結局はいずれも未成線のまま工事が中止されてしまった「幻の鉄道」でございます。今ではその遺構が観光資源、観光名所になっているのでございますよ、皮肉なもんですな、そこの奥さん(←何処の奥さん?)。





広島県の可部線三段峡駅と島根県浜田市を結ぶ陰陽連絡鉄道線として計画された広浜鉄道今福線は、太平洋戦争を挟んで戦前と戦後の二度にわたって着工されて、ともに一部は完成しながらも結局はいずれも未成線のまま工事が中止されてしまった「幻の鉄道」でございます。今ではその遺構が観光資源、観光名所になっているのでございますよ、皮肉なもんですな、そこの奥さん(←何処の奥さん?)。
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コメント一覧 (1件)
Wikipediaから引用
三段峡駅から先の区間は「今福線」として1974年に全線で工事に着手した。旧芸北町(現・北広島町)・旧金城町(現・浜田市)を経て山陰本線に接続するルートで建設された(「今福」は旧金城町の集落名の一つで、旧今福村)が、当初は下府駅を終点とする計画であった。旧線区間の石見今福 – 下府間は太平洋戦争前に着手され、大半のトンネルと橋梁が完成していたが、戦時供出によりレールの敷設ができず、その後の水害で路盤が崩壊してしまった。戦後建設を再開するに当たり、当初はこの旧線を手直しして使用することになったが、急こう配や急カーブを理由にこの案は破棄されて上記の浜田駅までの新線ルートとなった経緯が存在する。また、新線建設にあたり旧線の路盤を一部切り崩して新線の路盤とした区間が存在する。戦後の計画は三段峡 – 浜田間に平均速度100 km/h・全長約54 kmの新線を建設することに加え、広島 – 三段峡間も同じく旧線とは大きく異なるルートを経由するほぼ直線的な高規格新線を敷設することで、広島 – 浜田間約89 km(全区間中89%が山岳トンネル)という高規格新線を建設し、広島駅で山陽新幹線と直結する主要幹線として広島 – 浜田間をノンストップ特急列車により約55分で結ぶ構想がなされていた。日本鉄道建設公団下関支社は社団法人中国地方総合調査会に対し、「平均時速80 km、キロ程およそ100 kmの広島?浜田間陰陽連絡幹線の経済性」に関する調査を委託していたが、委託を受けた中国地方総合調査会が1969年9月に発行した資料では戸河内 – 浜田間だけでなく、広島 – 戸河内間も従来の可部線(可部・加計経由)のルートとは大きく異なり、広島 – 戸河内間をほぼ一直線で短絡するという概要図が掲載されている。同書は、中国地方東部では伯備線が陰陽連絡のメインルートとして整備されることが当時計画されていた一方、中国地方西部には有力な陰陽連絡鉄道がなかったことから、中国地方の拠点都市かつ最大の経済集積地域である広島市と島根県石見地方の中心都市である浜田市を結ぶ「広浜線」を準幹線として整備することで、石見地方の発展を主導するだけでなく、広域幹線交通網の補完機能をなしたり、陰陽循環ルート(山陽 – 伯備 – 山陰 – 広浜、もしくは山陽 – 山陰 – 広浜)を形成することにより、広域行政・経済・観光などにおいて中国地方の発展を促進することが期待できるとしている。三段峡駅の先では全長が10 km近い三段峡トンネルが計画されており、試掘坑の掘鑿に着手されていた。しかし、国鉄再建法に基づいて1980年に新線建設が凍結されたため工事は中止された。この時に建設された試掘坑は現在サクラオブルワリーアンドディスティラリーの焼酎等の保管施設として利用されている。工事凍結後は旧線の一部のトンネルが道路として使用されていたが、老朽化や行き違いトラブルなどにより現在は閉鎖された。道路に転用されなかったトンネルも、立地が非常に危険で到達困難な場所に存在するか、フェンスにより立ち入りが禁止された状態となっている。旧線の橋梁には、工事が戦時中だったため鉄の節約目的でコンクリートアーチ橋がいくつか採用されており、2008年にそのアーチ橋群が土木学会選奨土木遺産に指定された。