京阪本線と近鉄京都線の相互乗り入れがあった時代。








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words=’1968年(昭和43年)12月まで、京阪と近鉄奈良線は直通運転をしておりました。拙者が子供の頃の事です。三条から奈良までの急行、近鉄京都から宇治までの普通、の運行が主でしたかね。まだ地上駅時代、疎水の上にあった三条駅で異彩を放っていた赤茶色の近鉄電車を見かけるたびにワクワクしていたシーンがいまだに瞼に残っておりまして。運行本数は大して多くはなかった気がします。丹波橋駅に両線の連絡線がございまして、そこを利用しての相互直通乗り入れでした。今は撤去されて北側近鉄京都方は駐輪場になっていますね。南側桃山御陵前方は一部を残して宅地になったようですな。京阪の駅は島式ホーム4線を現在では待避線としての緩急接続が行われる駅になりましたが待避線側を近鉄直通列車が使う形でした。現在では両方の駅が連絡通路で結ばれていて、近鉄特急を含む全列車が停車する駅となっていますが、昔も今も両線の乗り換えがメインの駅であることは変わらないですね。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    丹波橋駅(たんばばしえき)は、京都府京都市伏見区桃山筒井伊賀西町にある、京阪電気鉄道京阪本線の駅。京阪線の開通から2ヶ月遅れて桃山駅として開業、1913年に現在の駅名に変更された。現在の駅名の由来は、この付近に「桑野丹波守」の屋敷が有り、かけられた橋『丹波橋』と言われている。太平洋戦争中の1943年3月8日に奈良電気鉄道との乗り入れ準備のために駅を移設、京阪が阪神急行電鉄と合併し、京阪神急行電鉄となった翌年の1944年8月に着工。嵐山駅(現阪急嵐山駅)のポイント・信号設備を転用して太平洋戦争終了後の1945年12月に完成。奈良電堀内駅を当駅に統合し、ここに奈良電と京阪神急行の直通運転(奈良電の一部列車はさらに近鉄へも乗り入れ、京阪神急行 – 奈良電 – 近鉄の3社直通運転)が実現した。その後京阪と分離し、奈良電が近鉄に吸収合併され近鉄京都線となっても継続して相互直通運転を行っていた。当時は現在の2番線と4番線を奈良電の電車が使用していた。駅構内大阪側の平面交差が列車ダイヤ作成や増発の差し支えとなり、近鉄京都線の架線電圧1500V昇圧(1969年実施)と大型車導入、京阪本線ATS設置(1967年より順次実施)を契機に、1968年12月に相互乗り入れによる直通運転が廃止された。それに合わせて近鉄京都線の駅は近畿日本丹波橋駅(1970年3月1日より近鉄丹波橋駅)として独立し、近鉄線との連絡線は撤去されている(駅北側の駐輪場周辺や、駅南側の分岐線跡地にその名残が見られる)。相互直通運転廃止から約10年間は、双方の駅に相手駅の列車の発車案内装置が設置されていた。また、当時は丹波橋駅-中書島駅間(約1.4km)の高架化が計画されたが、具体化する事無く現在に至っている。1987年6月1日のダイヤ改正で急行の8連化に伴い、それまで有った北口の構内踏切を地下道にしてホームを北側に延長された。併せて、それまでは北口の出入り口は西側にしかなかったが、東側にも出入り口が造られ、翌1988年には出入り口をかねた2つの駅ビルが竣工した。平成に入り南口の橋上駅舎の拡張と、エスカレーター・エレベーター・多目的トイレの設置などの改良工事が行われ、その後、拡張部分にはジューサーバーや本屋などが造られた。また非常渡り線も撤去された。島式2面4線のホームを持つ待避可能駅。北口は地下駅舎となっている。南口は橋上駅舎となっており、全てのホームにエスカレーター・エレベーター、出口にはエレベーターが設置されている。近鉄京都線の近鉄丹波橋駅とは南口から連絡通路で結ばれており、乗り換え可能である。 北口は以前は地上駅舎で、ホームとは構内踏切で結ばれていた。

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