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DoraNeko

いわゆる鰊御殿と言われる鰊番屋の建物は公開されているものだけでも12か所ほどあるそうで、小樽市内にも4件あるようです。付近に絢爛豪華な小樽貴賓館旧青山別邸という現在は商業施設化された建物も存在するのですが、今回拙者が訪れたのは小樽市鰊御殿と呼ばれている旧田中福松邸で、1897年(明治30年)積丹の泊村に建てられ、1958年(昭和33年)に移築されたものですね。北原ミレイの石狩挽歌で歌われているニシン御殿はここだとか。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    鰊御殿(にしんごてん)は、第二次世界大戦前に、北海道の日本海側に建てられた、網元の居宅兼漁業施設(番屋)の俗称である。第二次世界大戦前、とりわけ大戦景気までの時期に、北海道の日本海沿岸で隆盛を極めたニシン漁で財を成した網元達が、競って造った木造建築物である。「鰊御殿」の定義は未だ確定されておらず、明治期から大正12年頃までにかけて建築された網元の家屋程度の目安で紹介されている。かつてニシン場の古老達は、上座敷には違い棚、床柱には黒檀を使用していることが条件のように話していたが、その定義に合致するものはごく少数であり、ほとんどの建築物は現在解体されている。また、必ずしも望楼を備えているとも限定できない。様式は古くは平屋形式であり、屋根は瓦葺きである。御殿と称されたのは、内部に本州から移入された檜や木目の美しいケヤキ・タモ材などを使用し、廊下等には生漆を施し、欄間を備えた建築物であることによる。また、厳密には番屋とニシン御殿は異なる建造物であるが、資金や建築面積の関係から、中には折衷型の物もある。本来は同じ敷地内に、主人家族と女中などの奉公人のみ居住する建物があり、ヤン衆と呼ばれる漁の季節のみ従事する労働者も鰊御殿に入れられたが、主人家族とは別棟に泊まるのが常であった。当時の北海道においては、図抜けて豪華な木造建築物である。1890年代から1900年代のものは建築主の希望により和洋折衷の様式を取り入れているものもあり、流行に敏感な一流の棟梁を招聘して造らせたことが窺える。鰊御殿の棟梁は家族と共に来道し、敷地隅に小屋を建て数年に及ぶ工事に従事したと伝えられている。初期の建築物は、平屋建てで、度量は鯨尺と称されるものを使っている。女中部屋は台所から目隠しされた階段を上った中2階の、ごく低い天井の六畳間が当てられている。この女中部屋の形式は、ほとんどの鰊御殿が踏襲している。1階建てであるが、豪雪地帯であるからか、梁や桁は十二分に重さに耐えられるよう無駄に見えるほど材木を使っている。天井裏は、現在の建築と異なり、屋根裏との距離は無意味と思われるほど離れている。それは、軒先が雪を防ぐために一間ほど張り出していることと、重い軒瓦が載っていることなどから、軒材を屋根裏深く入れる必要性を感じたものと思われる。(外観は2-3階建てに匹敵する軒高である)。しかし、次第に実用性を重視し、以下のような構造が増えたものと考えられる。次第に内部は多層構造となり、1階は網元の居宅やニシンの加工場が置かれ、特に加工場は臭いの関係から邸宅から離れた場所に置かれたり、分業が進み主人とは別の人間が加工場を経営することが増加した。2階 – 3階部分はヤン衆の宿泊施設、ニシンの見張り台となっていることが多い。望楼建築は大戦景気で流行し、当初は存在しなかったものと想定される。望楼は一種の意匠と思われる。国の史跡「旧下ヨイチ運上家」は、廃藩置県後は運上屋の役目が終わり、廃藩置県から1956年前後まで番屋として転用されていたが、1979年に創建時の姿に復元されたことにより、番屋の姿を現在は伝えていない。複数の鰊御殿が文化財や商業施設として復元されている。

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