笠置駅舎前にある、元弘の乱・笠置山の戦いを再現した人形。





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words=’笠置駅舎前にあるモニュメントでございます。笠置山の戦いと称される太平記元弘の乱笠置決戦の様子を再現した人形が秀逸でございます。弓で戦う武将は足助重範、巨岩を敵に投げつけようとしているのは般若寺の僧本性房、とのことでございます。こんな巨岩を持ち上げられるってのも凄いことでございます(←そこ?)。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    笠置山の戦い(かさぎやまのたたかい)は、鎌倉時代後期の元弘元年(1331年)9月に山城国相楽郡笠置山(現在の京都府相楽郡笠置町)において、鎌倉幕府打倒を企てる後醍醐天皇側と、鎌倉幕府側との間で行われた戦いである。鎌倉時代後期において、皇位継承をめぐり持明院統と大覚寺統との間で紛議が起こり、文保元年(1317年)には幕府の調停によって持明院統と大覚寺統が交代で皇位を継承をすることとされた(文保の和談)。翌年の文保2年2月26日(1318年3月29日)には、持明院統の花園天皇の譲位により大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)が践祚した。31歳という当時においては異例ともいえる高年齢で践祚した後醍醐天皇は大覚寺統において一代限りの中継ぎと見なされていた。しかし、天皇は自身の直系の子孫に皇位が継承されることを望み、そのためには障害になるであろう幕府を打倒することを企てるようになる。冤罪とする説が有力であるものの、正中元年(1324年)には、天皇の討幕計画が発覚し、天皇側近の日野資朝が流罪に処せられている(正中の変)。その後、後醍醐天皇は討幕を再び企てるようになるが、元徳3年(1331年)4月になると天皇側近の吉田定房が幕府に密告したために討幕計画が発覚した。計画に関与した日野俊基、文観ら天皇側近は幕府側に逮捕され天皇にも幕府の追及の手が伸びようとしていた。元弘元年8月24日(1331年9月26日)、後醍醐天皇は側近とともに京を脱出した。幕府側の追跡をかわすために天皇に変装した花山院師賢は比叡山へ向かう。天皇は四条隆資らとともに奈良東大寺を経て鷲峰山金胎寺に移り8月27日(9月29日)には笠置山に至った。一方、天皇が比叡山にはいないことに気付いた幕府側は9月1日(10月3日)に宇治において75,000の兵を集め、翌日には笠置山を包囲してこれを攻撃し始めた。天皇側の兵は3,000余と戦力の面では圧倒的に不利な状況ではあったが、笠置山は天然の要害ということもあって幕府側相手に善戦していた。その後、9月28日(10月30日)の夜に風雨の中、幕府側の陶山義高らが山に放火したことによって天皇側は総崩れとなり、笠置山はついに陥落した。数日以内に天皇や側近らは幕府側に捕えられた。

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