南国土佐を後にして歌碑と、クジラ像の謂れについてPART2。



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words=’南国土佐を後にしての歌碑とセットになっているクジラ像でございます。1時間おきに流れる南国土佐を後にしての曲に合わせて、潮を吹くのでございます。この曲の原曲が土佐出身の中国大陸出兵鯨部隊で歌い継がれていたものであることが謂れなのですね。なるほど、ですな。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    『南国土佐を後にして』(なんごくとさをあとにして)は、武政英策が作詞・作曲した歌謡曲、またそれを元にした映画。原曲は、中国大陸中部に出兵した陸軍朝倉歩兵236連隊(鯨部隊)内で自然発生的に生まれ、歌われていた曲とされる(同部隊には高知県出身者が多かった)。後半部に土佐民謡「よさこい節」を歌いこんでいる。戦後、復員兵らによって高知県にもたらされ、古里ソングとして定着した。そしてペギー葉山盤の大ヒットで全国的に知られるようになった。武政は原曲を採譜、整理、改編しており、原曲の歌詞にあった「中支」「露営」といった、戦時下を連想させる言葉を、集団就職の若者をイメージさせる言葉に置き換えた。1958年11月にNHK高知放送局テレビ開始の記念番組として「歌の広場」にペギー葉山が登場し歌い、テレビ時代の幕開けとともに日本全国に知れ渡った。1959年5月にペギーの歌でキングレコードからシングル発売されると、発売からほぼ1年で約100万枚を売る大ヒットとなり、累計では200万枚を売り上げた。8月2日に日活で同作に封切、この映画に本人役として登場した。また、ペギーは同年の「第10回NHK紅白歌合戦」でも本楽曲を披露した。30年後の1989年の「第40回NHK紅白歌合戦」の第1部(昭和の紅白)にもペギーは本楽曲で出場した。NHKからオファーを受けた当初は「自分はジャズ歌手だから」と乗り気でなかった。鈴木三重子盤を聞いて曲を覚え生放送の本番に臨んだが、観客のボルテージが最高潮になるのを感じ、驚いたという。のちに鯨部隊で歌い継がれていたことを知るが、それを最初から聞いていたらオファーを快く受けただろうと語っている。ペギーのレコードが発売されてから語り継がれる曲となり、ペギー葉山は1974年に2人目となる高知県名誉県人が贈られた。ペギーが歌手生活60周年を迎えた2012年11月3日には、高知市のはりまや橋公園に本楽曲の歌碑が設置され、ペギーも除幕式に出席した。碑は午前8時半から午後8時半まで1時間おきにペギー本人の歌声が流れ、隣に建てられた鯨の親子が潮を吹く仕組みになっている。

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