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付近に吾輩がかつて勤務した会社があり、延べ12年に渡って行き来していた明治通りと八幡通りの交差点、並木橋でございます。1976年頃に、寺山修司さんが主宰する前衛演劇グループの天井桟敷の拠点だった天井桟敷館がございました。その末期頃から吾輩はこの近くに勤務するようになったんで、一際印象に残っているのでございます。懐かしいですわ~。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    天井桟敷 (てんじょうさじき)は、かつて日本に存在したアングラ演劇の代表的な劇団。寺山修司主宰で演劇実験室を標榜した前衛演劇グループ。状況劇場の唐十郎、早稲田小劇場の鈴木忠志、黒テントの佐藤信と共に、1960年代後半から1970年半ばにかけて、アングラ演劇ブームを巻き起こした。天井桟敷という劇団名はマルセル・カルネの映画『Les Enfants du Paradis(邦題:天井桟敷の人々)』に由来するが、寺山曰く、「(好きな演劇を好きなようにやりたいという)おなじ理想を持つなら、地下(アンダーグラウンド)ではなくて、もっと高いところへ自分をおこう、と思って『天井桟敷』と名付けた」。創立時のメンバーは寺山の他に、当時寺山の妻だった九條映子、高木史子、東由多加、横尾忠則、青目海、大沼八重子、濃紫式部、小島嶺一、斉藤秀子、支那虎、高橋敏昭、竹永敬一、桃中軒花月、萩原朔美、林権三郎の全16人。『書を捨てよ街へ出よう』などの一連の著作により、若者の間で「退学・家出の扇動家」として認知され人気だった寺山が主宰していること、また劇団創立時のメンバー募集の広告が「怪優奇優侏儒巨人美少女等募集」だったことなどから、設立から長期間、個性的な退学者や家出者が大半を占めるという異色の劇団になった。後に松田英子やカルメン・マキが加入していることからも、1960年代、70年代という時代の先頭を走っていた劇団の勢いがうかがわれる。旗揚げ公演『青森県のせむし男』の時から「見世物の復権」を謳い、創立3年目の1969年には、日本初のアングラ専用劇場「天井桟敷館」を設立。しかし、設立後まもなく市街劇、書簡演劇、観客参加型の演劇が増え始め、またこの頃から、西ドイツを皮切りにアメリカ、フランス、オランダ、ユーゴスラビアなどでも評価を受けるようになり、海外公演(あるいはそれぞれの国の俳優による上演)が増えるようになった。寺山の他プロジェクトにも密接に関わり、天井桟敷の公演がのちに映画化されることもあった。J・A・シーザーは後に、荒木一郎「僕は君と一緒にロックランドにいるのだ」[注釈 2]の作曲や、若松孝二監督作品に映画音楽を提供したりしている。「百年の孤独」(ガルシア・マルケスの同名作品を下敷きにした舞台作品)はのちにリメイク・改題され、映画『さらば箱舟』(寺山の遺作。死後に公開された)となっている。

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