桟橋に戻る途中の、嚴島神社の周辺です。

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DoraNeko

体力使い果たした感があるので途中の数々の見どころ全部すっ飛ばしてひたすら桟橋に向かって歩いております。ところどころで撮影してますがそんな状態で気のない気儘なシャッターなのでもはや手振れの連続ですな。干潮時の嚴島神社は初でしたが、浜に降りる気力なんぞ残っておりませんわ。具合悪そうな鹿がおりました。シカトしましたけど。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    宮島の鹿(みやじまのしか)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)に生息する鹿。厳島は約6,000年前縄文海進により本州と離れ離島化したが、その際に本土側の鹿の個体群から分断したものが宮島の鹿の起源であると考えられている。のち本土側個体群の分布域が縮小して厳島の対岸側には鹿が生息しなくなったことで厳島のものが孤立化した。厳島の鹿は厳島神社の神使とされているが、奈良の鹿と春日大社のような神鹿伝説は厳島には存在しない。カラスが厳島神社を建てる位置を示したという神烏伝説が残るが、鹿に関するものはない。厳島神社が創建されると島自体が神の存在であるとして神の島と呼ばれだし、以降現在までに何度か厳島=宮島=神の島であると強調された時期があり、そのたびに神鹿として崇められてきたと推察されている。あるいは一般的な神社における神鹿思想と宮島島民の風習(神の島での不殺生)が結びついたものであると地元歴史家は分析している。過去の文献において宮島の名が用いられているものに、源通親『高倉院厳島御幸記』がある。鎌倉時代に成立した『撰集抄』に宮島の鹿に関する記載がある。第二次世界大戦後、鹿は激減した(原因については定かにされていない)。少なくなった鹿を大願寺境内で柵で囲い込んで繁殖し20から30頭になった時点で開放したりなど、地元住民による保護対策によって回復している。また1949年(昭和24年)明治時代に作られた県令が廃止となったことを受け、同年に旧佐伯郡宮島町が鹿保護条例を制定、鹿の保護が明示され殺傷や犬の飼育を罰則付きで禁止した。なおこの際に奈良あるいは京都から鹿を導入したとされているが、現在廿日市市公式では否定されている。山陽新幹線などの交通網の発達により島には観光客が増え、観光客用に鹿せんべいを販売した。1979年(昭和54年)観光資源としての鹿を保護する目的で、それとは別に給餌が始まった。この1960年代から1970年代に個体数は激増したと考えられている。

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