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広島港から広電で平和公園へ。元京都市電が活躍してるのも何かのご縁でしょうかね。

デイリースポーツも広島版のシッポはこいのぼりですな


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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    広島平和記念公園(ひろしまへいわきねんこうえん、英語: Hiroshima Peace Memorial Park)は、広島県広島市中区中島町にある無料の市民公園。平和記念公園(英: Peace Memorial Park)もしくは単に平和公園(英: Peace Park)とも呼ばれる。1945年8月6日、アメリカ軍が広島市に原子爆弾を投下した。その後、1946年11月1日に、爆心地に近い中島町内10.72haが「中島公園」として都市計画公園に指定された。1949年の11月1日には国会で可決された特別立法「広島平和記念都市建設法」が制定された。世界に向けて人類の平和を願い訴えることと、過去の過ちを繰り返さないことを目的に、同年、広島平和記念都市建設法を受けた国家の記念碑的コンペティション「広島市平和記念公園及び記念館競技設計」を広島市主催で実施。約140件の応募案のなかから1等に岸田日出刀審査員が推す丹下健三以下3名(浅田孝・大谷幸夫・木村徳國)の案が選ばれた。丹下らの1等案は、市の中央を東西に走る予定の100メートル道路に垂直に交わるかたちで、記念館、広場、慰霊碑、原爆ドームを一本の軸線で結ぶというデザイン案が評価された。丹下は、日本の古社寺の伝統に由来する、「個個の建築よりも、その配置がつくりだす環境の秩序」を重視したという。2等、3等他の案は道路の存在意識や川を挟んだ敷地の先に臨む原爆ドームを視野に入れるなどはせず、このため建築のスケールを広範な都市計画の視点から点から捉え返そうとする点で丹下らの案の特異性が浮かび上がった。また公園計画案での道路割がつづみ形(鼓型)のデザインを呈しているが、丹下はこのつづみ形を、戦時中実施され丹下も参加したアンビルド・プロジェクトのコンペティション「大東亜建設記念造営計画」でも使って割とうまくいくことを掴んでいたことで採用している。このつづみ形のアイデアは丹下が広島高校時代に出会ったル・コルビュジエの「ソビエトパレス」建築コンペティション応募作品にあった。そのうち、広島平和記念資料館や原爆死没者慰霊碑の設計や、原爆ドーム・原爆死没者慰霊碑・資料館を結ぶ南北軸、資料館を中心とする3棟の建物による東西軸は実現した。当初は現在の広島市中央公園や基町中層アパート群・市営基町高層アパートの周辺も、平和公園として構想されていたが実現しなかった。また、平和大通りについても構想に含まれていた。丹下らのこの公園計画案は批判の声も多く、特に天皇制および大東亜共栄圏のイデオロギーを帯びた体制を支持する「大東亜建設記念造営計画」で名を馳せたため、丹下の転向が指摘されるが、この公園案の場合は戦後民主主義の反戦思想へ転換したといえど、都市や国土計画への志向が、戦前の上記コンペから戦後を通して一貫して連続しているとされる。他方、この計画案がもつ都市性については国内ではむしろ逸脱として批判にさらされている。しかしその後広島平和記念公園は、戦後の日本がどのような方向に向かうのか、世界に向けてアピールした記念碑的なものとなった。「広島平和都市建設構想案」が掲載された『国際建築』(1950年10月号)は英文併記で、このため海外でも注目され、とりわけアメリカの建築家の注目を集めた。丹下はこれをきっかけとして1951年に「都市のコア」をテーマとした近代建築国際会議(CIAM)の第8回会議で広島平和記念公園(広島計画)の発表招聘を受け、会議に出席。コルビュジエやヴァルター・グロピウスら国際的建築家と相対することになる。公園南側の平和大橋・西平和大橋は、アメリカ人彫刻家であるイサム・ノグチの設計による。公園の建設にあたっては、敷地内の多くのバラックを撤去することとなった。また、敷地内を走っていた古くからの繁華街の道(中島本通 / かつての西国街道→國道四号)は残されることになった。1951年8月6日に現在の区域を平和記念施設とすることを決定し、1954年4月1日に完成した。渡辺忠雄が呼びかけて集められた、平和大通り植樹のための樹木は、平和公園にも植えられている。毎年8月6日には平和記念式典が開催され原爆が投下された午前8時15分には黙祷が捧げられる。式典では、市内中学校、高校の吹奏楽部による「ひろしま平和の歌」の伴奏、広島市の合唱団等による合唱が行われる。平和記念公園は被爆前も公園だったと誤った認識があるが、被爆前は中島地区と呼ばれ幕末から明治・大正にかけて市内有数の繁華街として栄えた歴史のある街であった。公園の北側の原爆ドームがあるあたりは、相生通りを挟んで広島市中央公園(旧広島市民球場跡地周辺)と隣接している。

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