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words=’仙台に地下鉄が走り出す以前は仕事でよく訪れていたんですがね。それ以後は配送の仕事で訪れることはあっても仙台市の中心部に足を踏み入れる機会がございませんでした。長いこと訪れなかったんですが、震災の折にクルマで物資を運ぶボランティアをして、そしてまた10年ものご無沙汰となっていた次第です。だからここの地下鉄に乗車するのが楽しみだった訳で、実現して感無量なんでございますよ。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    仙台市地下鉄(せんだいしちかてつ)は、仙台市交通局高速電車部が運営する地下鉄である。泉中央駅と富沢駅を結ぶ南北線と、八木山動物公園駅と荒井駅を結ぶ東西線の2路線がある。ハウスカラーはローヤルブルーとしている。いずれも4両編成で運行されているが、各駅のホームは南北線では2両、東西線では1両の追加ができる長さ(有効長)を持つ。仙台市において地下鉄が検討され始めたのは1960年代からである。日本各地の都市部では昭和30年代以降に人口の増大と市街地の拡大が進んだ。仙台も同様で、それに伴って交通渋滞が顕在化したのもこの頃だった。当時の仙台市には路面電車の仙台市電があったが、道路交通事情の悪化で自動車が市電の軌道内に侵入することが頻発するようになった。これは元々禁止されていたことだったが、1966年(昭和41年)に認められるようになり、これによって市電の定時運行はより困難なものとなった。路線バスも含めて、後の仙台市交通計画委員会の報告書は、こうした状況を都市機能の麻痺と表現している。仙台市において都市計画道路が計画されたのもこの頃である。こうした事情を背景に、1963年(昭和38年)に設置された仙台市交通対策委員会は地下鉄を考えるようになり、1967年(昭和42年)に路面交通の代替として地下鉄を検討すべきであると報告した。また当時の仙台市長島野武は、1969年(昭和44年)に設置された仙台市交通計画委員会に対して、将来を見据えた交通体系として「大量高速輸送機関」の整備を諮問した。仙台市交通計画委員会では地下鉄案が有力視されたほか、地下鉄への市電や国鉄貨物列車の乗り入れ、宮城県北部の古川市(現在の大崎市)までの鉄道路線建設、さらにはモノレール案も出された。委員会は検討を重ね、1972年(昭和57年)に全7路線、総延長45.5キロメートルに及ぶ地下鉄網を1985年(昭和60年)を目標に整備すべきであるという報告を提出した。そして、1987年(昭和62年)7月15日、南北線富沢駅 – 八乙女駅間の全線13.6キロメートルが開通した。開通時には、1000系電車19編成が用意され、平日160往復、その他の日に142往復の列車が運転された。総工費は約2300億円だった。八乙女駅ではバスとの乗り継ぎ施設が併設され、その他の駅でもバスとの乗り継ぎ運賃が設定された。開通時には黒松駅と八乙女駅が泉市内だったが、1988年(昭和63年)3月1日に泉市が仙台市に編入合併されたため全線が仙台市内となった。路線の北への延伸はこの年に認可された。翌年に工事が始まり、1992年(平成4年)7月15日には97億円をかけて八乙女駅から泉中央駅へ1駅延伸し、総延長が14.8キロメートルとなった。過去の計画における「七北田線」ではかつて七北田宿のあった市名坂を経由する想定であったが、南北線はその西側に新たに造成された泉中央副都心に向かってそのまま北に延伸した。

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