川湯温泉駅前にあるユニークな「てしかかし」と双眼鏡です。

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words=’川湯温泉駅前、てしかかし看板の隣に置かれていた双眼鏡、どこを向いているのかとその方向を見ますと、硫黄山ことアトサヌプリでございますね、迫力がありますな~。てしかがの文字で顔を形成するキャラ、てしかかしも面白くてワタクシはこういうのが好きでございますw’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    弟子屈町(てしかがちょう)は、北海道釧路総合振興局管内の川上郡にある町である。釧路総合振興局の北部に位置する。釧路市から北約80キロメートルに位置。地理的には釧路総合振興局に属するが、地勢はオホーツク総合振興局に近い。 冬季の冷え込みは厳しい。 川湯では空気中の水分が凍ってキラキラひかる「ダイヤモンドダスト現象」が見られることがある。アイヌ語の「テㇱカカ(tes-ka-ka)」に由来するとされる。この名称の解釈は諸説あるがアイヌ語研究者の山田秀三は多くの道内の地名における「テㇱ(tes)」(編み連ねたもの〔=やな〕)が岩盤が川をやなのように横切る様を指していることを指摘したうえで、当地で釧路川を横切る岩盤のことを指したのではないかとしている。なお、後ろに「カ(ka)」(~の上)が2つ連なっていることについては「岩盤のところのその岸」という意味合いで2つつけたのではないか、としている。このため、この解釈に沿った場合「岩盤が川を横切っているところの岸」というような意味合いとなる。屈斜路古丹遺跡をはじめ、町内各所に縄文時代の遺跡が残されており、古くより人が暮らしていたことが分かっており、その子孫が現在のアイヌ民族と考えられる。江戸時代には、テㇱカカ(弟子屈=現在の弟子屈市街)やクッチャロ(屈斜路)などにアイヌが集落を形成して暮らしていたことが松浦武四郎などの記録に残されている。佐野孫右衛門が政府の許可を受け、1876年(明治9年)から硫黄山の試掘を始める。翌年には採掘を開始したが収益が上がらず、硫黄山は函館の銀行家山田慎によって買収される。 その後所有権は安田財閥の安田善次郎に譲渡され、 1887年(明治20年)から硫黄の採掘を開始。1888年(明治21年)には輸送のために北海道で二番目となる釧路鉄道が硫黄山-標茶間に敷設されたが、乱掘により資源が枯渇し、9年後の1896年(明治29年)には操業を停止した。1880年(明治13年)には更科治郎が入植し、農業を開始した。 1897年(明治30年)には村の大部分が皇室の御料林となり、1898年(明治31年)に農業指導者小田切栄三郎が着任。農業と畜産をおこない、多くの移民を受け入れた。

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