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words=’予讃線の五郎駅でございます。実に面白い駅名でございます。愛ある伊予灘線の愛称区間でございます。元々ここから内子線が分岐していたのですが、1986年(昭和61年)に現在の予讃線の短絡新線ルートが出来たためこの駅からの内子線部分は廃止されております。その時までは2面3線のいわゆる国鉄型配線の駅だったものが、現在では単式ホーム1面1線のみの駅となって、同時に側線や駅舎も撤去されたとのことです。島式ホームを初め、その時の遺構が残ったままになっております。配線部分も痕跡をとどめている箇所がございますね。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    五郎駅(ごろうえき)は、愛媛県大洲市五郎にある四国旅客鉄道(JR四国)予讃線(愛ある伊予灘線)の駅である。かつては内子線の分岐駅だった。この駅を開業させたのは愛媛鉄道である。1918年(大正7年)の2月14日に愛媛鉄道が長浜町駅(現在の伊予長浜駅)から大洲駅(現在の伊予大洲駅)までを開通させたのに伴い愛媛鉄道の途中駅、五郎駅(ごろうえき)としてこの駅は開業した。愛媛鉄道は1933年(昭和8年)の10月1日に国有化となり愛媛線とされる。軌間は愛媛鉄道時代から762mmのままだったが、1935年(昭和10年)10月、下灘駅から伊予長浜駅までの路線の開通にあわせて1067mmに改められた。このとき高松駅から下灘駅まですでにのびていた予讃本線が愛媛線を含めて伊予大洲駅までがつながったため、高松駅から伊予大洲駅までが予讃本線とされ、当駅も予讃本線の駅となった。この日には、それまで愛媛線の一支線だった若宮信号場(伊予大洲・五郎間)から内子駅までの路線も同じく改軌となり内子線と改称、さらに五郎駅分岐とされたため当駅は予讃線と内子線の乗換駅ともなった。1986年(昭和61年)の3月には向井原駅から内子駅まで及び新谷駅から伊予大洲駅の新線が開通し内子線が短絡ルートに組み込まれた。このため内子線の当駅から新谷駅までが廃止となり、この駅は乗換駅ではなくなった。この駅はその後1987年(昭和62年)4月には国鉄の分割民営化により四国旅客鉄道の駅となって現在に至る。予讃本線は1988年(昭和63年)6月に予讃線と改称された。単式ホーム1面1線を有する地上駅。内子線が当駅に入っていた頃はこの単式ホームのほか、さらに島式ホーム1面2線を有しており、あわせて2面3線だった。今でも使われなくなった島式ホームは残っていて構内は広い。木造の駅舎があり、かつては駅員も配置されていたが、これも内子線の廃止後撤去された。現在はホーム上に簡便な待合所が設けられているのみである。駅の近くには菜の花畑があり毎年3月ごろにはこのあたりは黄色に染まることになる。あたりは田園地帯だが、駅の西南1kmほどの国道56号沿いには商店なども進出してきている。野口五郎がアイドルとして人気絶頂だった1970年代は、多くの女性ファンがこの駅を訪れ、入場券が飛ぶように売れた。ちなみに野口駅は、1984年に廃止された兵庫県の高砂線および別府鉄道にあった。駅周辺は野生のタヌキが出没するため、駅長が居た時代には餌付けをして「タヌキ駅長のいる駅」として知られていた。駅の無人化後は地元有志がこれを継続している。さらに2014年に観光列車・伊予灘ものがたりの運行が開始されてからは、おもてなしの一環として独自にタヌキの着ぐるみを身にまとったタヌキ駅長に扮し、列車の出迎え・見送りを行っている。お見送りは次第に人数が増え、住民の交流の場となっている。

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